▷ 雑記・メモ



◉1450番目の夢(「夢の標本 https://twitter.com/sama_」より詳細を記す)

古びた合宿所。畳の部屋、数人でざこ寝。
私は目覚めていたが、だれも起き出さないのでそのまま横になっていた。
いちばんだらしなさそうな二人が勢いよく身を起こし、皆も起きはじめる。
私はだれよりも早く目覚めていたのに、と 少しばかり悔やむ。

元旦の朝である。
朝刊が来ているが、だれも気づいていない。
私はしめしめと思い、さっそく読みはじめる。
様々な企画記事や漫画、こった年表や派手なテレビ番組表。
父が読ませてほしいというので、私は取り急ぎ紙面をめくる。

そこに前面広告で「マッハ号」の実物新型車の写真があった。
白地に赤のライン、シャープで怒った顔のような斬新なデザイン。
すっかり感心しながら新聞を父に渡す。父は「そうでもないさ」と車には興味を示さない。

祖父の法事が始まる。広間に人々があわただしくしている。
何ごとか質問されて、とっさに答えてしまった相手は、見知らぬ女学生。
しまった余計なことをした、という思い。
法事をすまし私は一足先に、実家へと向かう。懐かしい町並み。
家はまだあるのだろうか。朦朧(もうろう)としてあやふやな感覚。

五叉路からのゆるやかな下りの歩道で、喉から口にかけて気持ち悪くなる。
硬いものを吐き出す。
いくつもの、短く削りこんだ色鉛筆である。黄とオレンジ。
たまたまそばに街路樹の植えこみがあり、同じ黄色とオレンジ色の花が咲いている。
私はちょうどよいと思い、唾液まじりの短い色鉛筆を、そこへばらまいて捨てた。

角を曲がったものの、まっすぐ行き過ぎてしまったようで、
空に霞むようにして、巨大な電電公社の電波塔が立っているのが見えてきた。
1万メートルはありそうだ。(まるでゴヤの巨人の絵のよう)

気がつくと小雨まじりの曇天で、風がきつい。
私は折りたたみ傘をたたんで、風に向かって歩く。
エンジンのうなりを上げて黒いスポーツカー(年季の入った)が坂を下ってくる。
水はねしないように、車は私のそばでは速度を落として通り過ぎてくれた。

右手には石壁があり、その先の高くなっている土の空き地で、子供らが遊んでいる。
一人が「兄ちゃんも休みだよ。帰ってきて○○カラスやってた」と言っている。
○○カラスとはゲームの名称のようだ。

(目覚め)

※色鉛筆と電波塔のくだりが面白かったので、詳細を書いてみた。他人の夢はつまらないという。また夢の内容はその人の心を表現するものではない(「夢占い」はナンセンス)。しかし、夢がその人の心理を解き明かすための「とば口」になることは間違いない。夢の記録をネット上に残していくのは、照れくさいことでもある。




◉ピタパタ公演『猫町』を観劇

ひとことで言えば、優しい演劇。悪人は(登場人物にも役者さんにも)いない。
大道具には装飾性がないし、大がかりな仕掛けもない。
口角泡飛ばすような叫びの連続ではないし、噴汗も落涙もない。

温泉旅館、駅、隣町のバー、詩人の部屋。
詩人とその妻、旅館の女中、駅長、旅館の客、画家志望の青年、バーの女、時計屋。

夫婦のいざこざがあり、男女の綾があり、狂言まわしがあり、
クライマックスに、幻のような猫たちの町「憑き村」が現れる。

詩人が始めに語るように、時計屋が最後に話しかけたように、
私たちは西から東、そしてまた東から西、
同じ時を繰り返す不思議に翻弄されている(一枚の枯れ葉のごとく)。
「ただこの瞬間 今この時に対する原因と結果が同時にあるだけ」

下り列車に乗っていたはずが、気がつけば上り列車の函座にいる。
夫婦もそうやって、単線から複線に分かれ、そしてまた単線へと、
そして再びもとの駅に帰っていくのだろう。
劇最後の 詩人の妻の表情には、そんな優しさ(希望)があふれている。
彼女の手には、時を取り戻した懐中時計が‥‥

さて、今回のイベント用スペース、もとは大きな商店だったのであろう、
その会場の構造を生かした演出が面白かった(ガラス張りの出入り口や、排水溝など)。
また、昭和初期の雑誌記事を読み上げるくだり、古いレコードの曲、などなど、
大道具のシンプルさの内に 昭和の景色を想起させるための配慮もあった。
難解な台詞まわしや冗長な独白はなく、観客が取り残されてしまうこともなさそう。
旅館の女中が、詩人の言葉に影響されて「形而下のお掃除をする」という台詞が私は好きだ。

一方で、詩人・妻・時計屋・猫の町 のそれぞれが並列化してしまい、
コントラストに欠けた印象で、ほんの少し物足りない。
とまれ、観劇後に会場をあとにし、昭和の香り漂う北品川(ぜひ散策をお勧めする)を
通り抜けながら、私自身、劇の登場人物となってU町で迷子になりそうな浮遊感に
満たされていたのだから、今回の『猫町』、心地よい余韻が残る劇だと思う。

http://kaznikki.cocolog-nifty.com/pitterpatter/


◉横尾忠則さんの公開制作より

府中市美術館での公開製作を見た。
真っ暗闇の絵、どんどん暗くしていって、さて?

ご自分のアトリエにはネコが4匹。電気を消すと本当に漆黒の闇、
の、中で、走りまわって遊ぶネコ。
「何か、ちゃんと見えてるんですね。どんなふうに見えるのか。
だから、僕がなりたいのはネコなんです」たしかにネコもいい。
さて、いよいよ制作の開始。

ヨコヨコ・タテタテ・ヨコ・タテタテ
筆のおしりを持ち、ちいさな十字で塗っていく。
1時間、もう一言もなく集中。画家が闇を塗っていく、そのために
一体どれだけの筆をかさねるというのだろう。

‥‥なぜか絵の黒さをさほど感じなくなっていく。
暗闇と同じ。「目がなれる」みたい。
じっと見続けていると、細かいところの違いが浮き出てくる。不思議。

突然、白い色が登場。
左上には「450」の文字が入る。
(今日はその謎は解けなかった。最後にはわかる、とおっしゃっていた。)
アクセントのように白が入って、絵全体がざわめく。
つづいて明るい茶色、も来た。
‥‥ふと私は思う。
闇を際立たせるためには、コントラストが必要では?
今日 最後に明るい色が来た、まさにそんなふうにして。

横尾さんは、この先この絵をどうするのだろう。
このまま闇こってりの彼方に向かって、沈んでいくのか。

「僕の絵は、具象のようだけどそうじゃない。抽象と具象、その中間。
あいだを、さまよっているんです」


◉言葉はそれでしかない

「言葉ではどうにでも言える」
「言葉の定義はあいまい」
‥‥この世界には、あまり厳格ではない約束事があるだけ。
人間同士が同じことを言っても思っても、その言葉の
色合いは 未来は 過去は 重さは 温度は 一致しているか?

哲学はそんなことを掘り下げていって、
結局意味のわかりにくい、長ったらしい詩になっていく。
(現代思想の本をめくっていると、不思議な詩集に見えてくる。)

あいまいな言葉ではなく、人と人の間には「共感」がある、と
どなたか書いていた。
私はむしろそれを「共振」と呼びたい。
こころの「ふれ」「ゆれ」「ぶれ」が重なる瞬間、つまり共振。
言語や記号を超えた、心の波長のようなもの。

なんだかスピリチュアルみたいな話になってきて気持ちよくないけれど、
とにかく「言葉を言葉で探す旅」には限界があるということ。

知識や経験を張りめぐらせただけの強弁とか、
言葉を雰囲気でくるんだ優しさ・繊細さとか、
そういうのは本当はとてもつまらないんだ。

たとえば人生の賢者(老人)は、多くを語らない。
老人がおしゃべりだとしても、それは約束事をなぞっているだけの定型だ。
彼らの舞台にはさりげなく、能面が置いて(老いて)あるだけではないか。


◉イリュージョン

波長は、感覚のさらに奥にあるサムシング。
立川談志さんが独自の言い回しで「イリュージョン」と言っていた。
「なんだかわからないもの」
本当のところはなんだかわからない。人間の考えも存在も、
突き詰めれば、自分たちにはもうわからない。
「わからない何か」に、「おかしみ」が生まれる源泉がある。
愚かしさ、哀しさ、滑稽さ、尊大さ。
みな幻想的な何かから生まれるのだろう。


◉二×項×対×立

主義主張、分析理解、なんでも対立するAとBに分ける手法。
「分ける」ことは「わかる」こと。
‥‥コントラスト。白か黒かにしてしまう。 閾と境界を設ける。

日本画の大家なら、
伊藤若冲と曽我蕭白
狩野永徳と長谷川等伯(狩野派と琳派)
喜多川歌麿と東洲斎写楽
池大雅と与謝蕪村

‥‥なのだそうだ。
比較する言葉をさがせば、差異によって認識が生まれる。
認識は、乱暴者たる振る舞いの上に成り立つ、ともいえる。