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踊る絵、絵でない何か、へ。

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今朝のこと。 自分の中を整理/そこにボリュームに対する希求心を発見した。 それはつまり、「垂直方向・3次元・空間・造形」への欲望。 自分の作品を振り返ってみるに、 ・迷路のような絵(右に作品リンクあります。以下同) ・奇人(キャラクター = 2次元のフィギュア的) ・立体絵(粘土による「立体の線」。どこからでも見られる絵) ・作品集(本・冊子という手応えへの欲望) ・個展の見せ方(ネットを吊るして絵を引っ掛ける手法/2013年の個展にて) ・3DCG(これもディスプレーで見る立体物) などなど...  すべては立体的なものに通じる道なのではないか? 私は「遠近法」に反感を抱いている。それは2次元に、計算で作り出す「疑似立体」だから。どうもニセモノの臭いがする。「本物そっくり」という「ニセモノ」。 そこで大和絵の「投影図法」に注目した。大和絵のような、べたっとした空間は視点を選ばない。均一で平等、無垢な表現に思える。巻物による、横スクロールの世界もこれに近い。 遠近法の世界は、視線はただひとつに固定される。とても私的で、絶対的な世界。宗教。 では、もっと広く考えてみよう。 絵それ自体も、大きく捉えれば、2次元に対する限定された視点を与えるものだ。それは「正面」から見なくてはならない。横や後ろからは見えない。 絵という構造物は、3次元に存在している。しかしそれは3次元から切り離され、独自の世界を内包し表出している。正面から見えればそれでよい、と主張している。絵そのものが、何百年もそう主張しつづけてきた。 これは網膜のサーカスだ。マルセル・デュシャンは網膜に訴求するだけの絵を批判している。絵を疑い、絵の存在性を疑った。私は彼とは少し異なり、絵の拡張性・可能性に注目している。 まず額縁がある。より絵の存在と現実空間とを分離するための道具(装置ですらない)。それどころか、権威まで付加してしまう(鬱陶しいかぎり)。 そこで画家も考える。額縁をやめ、キャンバスをやめ、別のものに描いたり、別のものに絵を入れてみたらどうだろうと。彼らは、絵の世界に寄り添う、新しい装置を見出そうとしている。この辺から、絵という存在が「厚み」を増してくる。 厚みのある世界、存在感。ここで言いたい

路上絵描きのこと(秋葉原 編)

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路上絵描きを始めて数年。 路上での絵描きは、楽しい。集中できる。 一期一会、通行人との一発勝負。 絵も、下描きなしの一発勝負。 ペンさばきは速くなった。 ぐずぐず描いていては、人を魅きつけられない。 いつ、どんな場所に立って、どんなふうに見せるか。 歩く人や街の迷惑になってもいけないが、目立たなくては意味がない。 もちろん、第一の目的は自分が楽しく面白い絵を描くこと。 4月下旬からゴールデンウィークにかけて、毎週日曜日に秋葉原の歩行者天国へ。 秋葉原でずっとやってみたかった。できれば「秋葉原らしい」絵を。 アキバを闊歩する彼らに対して、私の絵は訴求できるのか?  そういう「勝負」。 結果は、どうだったろうか。 外国の方「写真いいですか?」と丁寧に聞いてくる。もちろんオッケーです。 日本人は「スッゲー」。遠巻きに、あるいは通り過ぎながら「スッゲー」。 印象的だった肌の色の濃い外国の女性。本当に無邪気に絵を喜んでくれた。ハッピーな波。 中華系らしき男性。気さくにいろいろ話しかけてくれた。「がんばってね!」爽やかに去っていく。 ほかには、祝事帰りとおぼしき男女のグループが足を止めてくれた。 絵の女子学生の顔 はクマであるが、それを「はがしてみて」と私は言い、青年がおそるおそるはがしてくれた。クマの下には、前もって女の子の顔を描いておいた。小さな歓声と拍手。 秋葉原らしい雰囲気の若い男性が「完成した絵はどこかで見られますか?」と聞いてきてくれた。私は敬意を表して彼に名刺をお渡しした。 ・・・こんな感じだ。「勝負」の結果はわからない。 おかげさまで今までにはないユニークな絵が描けた。マンガっぽさもあるし、いいと思う。 その場その時だけのエネルギーがこうやって絵にたっぷりと注がれる、路上絵描きの面白さ。 画像クリックで拡大します○秋葉原の街並と、クマのかぶり物(別紙なので脱着可能)をつけた女の子。ぶっ放すマシンガンのマガジンには、弾のかわりに札束、打ち出すのはハートだ。細部もたっぷり、隠れた意味を考えればいろいろと楽しめます。所有したいという方に原画をお譲りします。

2016 今後の予定(5/1内容更新しました)

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○作品集『異極考』5月1日発売 異極鉱という変わった石を、ひたすら100枚描きました。 その時々で変わっていく、さまざまな石の景色をぜひご覧ください。 ※5/1発刊いたしました。 紙の本・データ本ともBCCKSで入手できます。 http://bccks.jp/bcck/143900 ○作品展示 栃木県那須郡那珂川町にある金子酒造 その酒蔵にて31点を展示します。 ゴールデンウィーク中に、那珂川町のお祭りの一環として実施します。 期間中は、町のあちこちでライブや展示が行われるそうです。 http://nakagawamachi-kanko.org/recommend/detail/105 ○路上絵描き 4〜7月にかけて、下北沢・銀座・秋葉原などで行います。 下北沢で描きはじめた細かい絵は、先日仕上がりました。 銀座ではたくさんの人に見ていただけました。 次、秋葉原ではアキハバラ的な絵を描いています。 秋葉原 2016.4.24. ○作品集『左馬全作品』2011〜2016 オールカラーで200ページを越えます。夏までには発行。 昨年出したかったのですが、デザイン面で納得がいかず 編集作業の時間がかかっています。 ●ツイッターをしばらく休止します ツイートや作品画像は残します ので、ご興味あればご覧ください。 以上、4月になりましたので、諸々のお知らせまで。 いつかどこかで私の作品が皆様のお目にかかれますように。

作物

私の描く絵は、下書きがない。エスキースがない。 無意識と意識のあいだで描く ・・・と説明してきた。 あらためて思うに、それは「駄」あるいは言葉はわるいが「糞」ではないか。 自分では座禅を組むように絵を生みだし、最終的には1作にまとまるように 意識の割合を多くしていって仕上げたつもりである。 しかし実際は野方図で、好きなようにばらまいたタネに水をやって、 たまたま育って実をつけてくれた程度のもの。そんな気がする。 作品と呼ぶのもおこがましい。品のない、作物(さくぶつ)とでもいうべきか。 (しかし分厚い辞書を引けば、作物も芸術作品の意とあるのだが。) では(私にとって)作品のあるべき描かれ方とはどのようなものか。 まずはじめに意図や欲求があり、 それに沿いながらも意識と無意識のやりとりで織りあげていくもの。 そして何より、その作業の折々に、見えない鑑賞者との対話が 果たされなくてはならない。 その絵は何?、おもしろいつまらない、何かを感じる感じない・・・・ 伝わる何か、納得できたり、刺激や面白味が含まれなくてはならない。 これらのバランスを上手にとり、謙虚に大胆に描いていくこと。 作為がすぎれば、それは意匠、グラフィックデザインとなってしまうし、 無意識がすぎれば、鑑賞者に届くもののない自己満足、欲求の発露でしかない。 特に後者は快感をともなう。無意識をうまく使えばいくらでも奇妙な絵は描けるし、 世界を手に入れたような高揚感がある。 結果として何かは出来上がるが、「駄」であり「糞」である。 私は自分の作ったものを愛さない。自作を愛すなど気味が悪い。 しかし敬意ははらう。鑑賞者がいるかぎり、作品は大切な存在でありつづける。 個展をしたり画集を作るのは、つまりそういうことだ。 作品に働かされている。手間や時間やお金を使う。 話を戻せば、先述の三つのバランス、これがひどく難しい。 慎重にはじめようとすると、1本の線すら引けずに立ち止まってしまう。 長い長い黙考。 気ままに始めると、質量が軽くなる。線がスカスカと抜ける。 思いが全く反映されない。 自らを高め「作品」をものすべく、しかし今はまだ立ち止まる日々だ。 立ち止まるな描きつづけろ、という声も自分の中からは聞こえてくる。 ホルスト・ヤンセン