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日本的なるもの

最近、私は日本的なるものの間を逍遥している。 浮世絵、万葉集、日本人学、柳田・折口、松尾芭蕉、利休、河合隼雄。 さて、芭蕉といえば「わび」「さび」。 しかし、彼はもともと、20年ほど滑稽なる歌作り=「俳諧」に邁進していた。 当時の主流は、和歌の流れをくむ「連歌」。それは華美の様式。いっぽう「俳諧」は連歌から派生した、ダジャレ・パロディの世界(貞門風や宗因風)。 芭蕉がわびさびの俳句を極める(蕉風)のは、その後、死去するまでの10年。 もちろん俳諧師のころから、その実力は地方出身者としては突出、才能を発揮していた。(芭蕉は三重県伊賀の出) それにしてもあの芭蕉が、作句人生の2/3は、面白可笑しい俳諧作りに明け暮れていたのだ。おそらくは陽気にゲラゲラ笑いながら、仲間たちとともに。 さて、俳諧をなすにあたって、パロディの元となる出典にあたることが必要となる。つまり古典などの教養や言語センスがあるからこそ、ギャグを楽しめるのだ。俳諧師たちは『荘子』を愛読していたという。 しかし芭蕉はある日気がついた。知識や形式としての古典ではなく、その情動、心の動きこそが大切ではないのか? 彼は古人の心をおもんぱかる必要を説いた。こうして俳諧を脱し、俳句というものが姿を現してくる。 芭蕉は、「わび」については具体的な説明をしていない。いちばん肝心な部分は、あえてそのままに。これが大事。千利休もそうだった。 核心はシンボルとして、言語化せずに「宙に浮かせておく」べきなのだ。河合隼雄はこれを「空」として、日本人の精神構造の核にあるものだと分析している。 「言わなくてもわかるでしょ?」「それを言っちゃあおしまいじゃないの」「野暮は言いっこなし」‥‥ 何事にも察してほしい部分というものがある。そのへんの微妙なやり取り、つまり日本人の美意識(習性)だ。 私はこれを「ちくわ」に例えたい。ここで失笑しないでほしい。冗談のようだが、日本人がグローバル時代に主張すべきキーワードである、と真剣に考えている。 一気に「わび」から「ちくわ」に話が飛んでしまった。 中央が穴であることと、押したときの弾力のかげん、穴への出入りが可能であること、そういった特性が、現代社会の限界を乗り越える可能性を秘めている。昨今の悲痛な「負の連鎖」を、や