投稿

6月, 2013の投稿を表示しています

人で、無し

路上絵描きで、初めてお会いした方から「人は描かないのですか?」と 聞かれた。 うれしい質問。いきなり(私の)核心にスパッと。 本当に人は人が好き。飽きもせず人を描く。 画像や絵のサイトを開けば、 人、人、人、せいぜい骸骨、あるいは動物、または人形。 世の中の大勢が人を描き、人を見て、人を読み、人を聞いている ので私は「人」をいったん外に出して置くことにした。 いつか「モチーフとしての人間」というものについて客観的分析ができたなら、 カンバスにドーンと顔だけ、という絵を描くこともあるだろう。 今は 人間だけを描くという「安易さ」に、気持ちを譲れないでいる。 人間/構造物/自然物/宇宙/なんだかわからないもの‥‥ これらすべてを、等しく対等に扱いたい。 それが絵を描くことの正義というか真理というか、本当に面白いものをパッとつかむための 作法のようなものだと思うのだ。 その絵はだから、人で無し、何かではある と私は言う。 絵は 開かれ(花びらのように)そこに置かれ、育ち、 そして最後には(最後があるなら)目覚め、起きなくてはならない。

路上より( 2 )

イメージ
路上での創作は、半分自分であって/半分自分でない。それは街だ。 絵には街が しっかり溶けこむ。 だから「地図?」という声を 背中に多く聞く。 私は「いいえ地図ではありません」と 背中で応える。 もしかすると地図だと言ってもいいのかも しれない。 ‥‥今日は曇天。絵は、存分に視線視線視線を浴びてむくむくと育っていった。 絵は増殖する/終わりなき増殖。目にした者の心の奥底に沈み、しずかに育つ/育ってほしい そうあってほしい と願う。願い、また描く。 それにしても、この街はどこへ行くのか?  巨大なカメの背中にのり、深層心理の海へ。‥‥見た者の無意識から、再びこの絵をサルベージしたい。そういうふうにして、取り出した絵の続きを、また描きたい。描けたら 愉快だろう。 (6.26.追記 : 完成したので画像変更しました)