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1月, 2012の投稿を表示しています

【夢490】

(夢490番は長くてツイートしきれないため、このブログに記す) 古い家が密集するせまい壁の間 植木 ねばっこいクモの巣々 身をかがめ逃げる 追っ手は影のような黒い者たち 糸を破って進む 大きなクモが怒る なぜこんなことになったのか‥‥ コタツに入って父と会話 テレビの相撲中継に映る力士 の名は「藤森」 マゲは結わず 長い黒髪が肩から腕にかけ波打っている 歌舞伎役者のような赤ら顔 山のような体躯「あれは強いぞ 藤森を慕う者は多いんだ」 藤森は”特殊級横綱”で 人望も厚い実力者「〽藤森の〜 なりゆきて〜」父が詩吟する‥‥ ところ変わってタクシーの中 喪服姿の中年の男女 位牌を抱いた男「やつらになど負けない」故人の無念を思い出し 自分にカツを入れるという「だが気をゆるすとな ふうっと忘れそうになる やつらの力が働いているせいだ」やつら あの黒い者たちの群団 藤森は精神的エネルギーを発し 人々を守護している しかしそれをけっして意識してはいけない その途端 やつらは藤森の役割を察知し 手を下すはずだ 私も藤森の存在をイメージしないよう努めたがゆえ やつらに狙われることになる‥‥ (文頭に戻る)

シミュレ・ミシュレ

イメージ
壁に貼りだしてみる。鑑賞者のいない個的展示会。 さて 貼りだすことで、張り出すものはあるか。ムクムクと? ‥‥このシミュレーション が 新たに気づかせてくれたもの。 たぶん彼らは、文字との邂逅(かいこう)を待っている という気配。 とはいえ絵々はそのまま寒々しそうに、 プラトーに置き去りにされている。今はまだ。

おいてけテイケー

テイケーは定型。おさだまり。 英語や日本語に文法があるように、音楽にも決まった仕組みがある。和音、リズム、音階のつぶつぶ。構成要素がはっきりしている。ピアノの鍵盤をめちゃくちゃにたたいても、曲にはならない。 ひるがえって絵画は? 線も色も、限りない。無限の階調がある。あるけれども、まったく自由かというと、どうやらそうでもない。 たとえば、構図。人や物を描けば、わかりやすい方向になる(する)し、したくなる。そのものがよくわからない「とんでもない方向」から描いた絵なんて、あまり見ない。たいていは人の視線・視界を意識して描かれるもの。 そうでない常識からはみ出した絵々は「意味がない」「わからない」と言われる底に落っこちる。芸術家は創作し、と同時に「だれか」とも向きあっているのだろう。

猫になる猫にのる

ビル猫の風太 が背中にしょっているビルの 窓の明かり どれかは必ずライブカフェです。カフェの箱はお客と音楽を飲みこんで、大きくふくらんでいきます。 そういう猫なのです。 じゃあまた少しだけライブの話。 先日「ウッドストック・カフェ」にゆき、 オランさん * と 江森孝之さん * のライブを味わってきました。 「ギターがいるとやっぱりいいですね。アコーディオンと正反対、の音が、すごくいいです」 すごくいいです。オランさんの言うとおり。 江森さんのギターは手先指先じゃなくて、体全体ではじいてる と見た。「弾く(ひく)」ことは「弾く(はじく)」こと。気持ちが、足から腰から前かがみの背中をぐるっと通って指先に、それで弦をグッ 弾いてひとつの音。 そこへつやつやとしたアコーディオンの音色 がやってきて、わき起こる楽しい景色。 それはどんな世界? あなたも「猫の背中のどこかの窓」にもぐりこみ、絵本のようなその音楽にひたってみればわかります。 ひとりの聞き手じゃあありません。気がつけばもう音の絵本の中の登場人物となって‥‥。まずは少しの勇気と好奇心をもって、そのお店のドアをギッ と あけてみてください。 夜の街は猫の背中に。 *ふたりのお名前をクリック、それぞれのサイトをご覧になれます。ライブの予定なども。

ライブハウス私感

夜です、たいていは。 知らないライブハウス のドアノブに手をかける。やや緊張して「クイッ」ひねる。知らない世界へのとばり が開く。 狭いです、それもたいていは。 もうすでに 人、椅子、音楽、言葉、酒 ごっちゃになっている。混然空間。もうゆくりなくゆとりなくそこへ、混ざりこんで座るしかない。そんな前線で<個人的境界線>は フッとかるく飛ばされる。まるっと丸腰。 そこにいるそこにある、人だったり妖怪だったり奇人だったり、構造物だったりスライムだったりが、パホーマンスがはじまる頃には、全部とぐねぐねに溶けゆく心地。口紅も、ピックも、キーホルダも、シガーケースも ゆっくりうずを巻いていく。 だれかの耳は 私の眼、あなたの歌は だれかのため息。 指で 宙をなぞるジャイブ = ほれました、よいました、たのしみましたのサイン。壁の落書きはひとりでに歩き出すし、大事にしまわれたネームカードはいつも行方不明。 地図を忘れた街の影の、底っちょにある小さな箱 から流れてくる音楽。音符のうらがわには、たいてい 気持ちこってりの詩 が書かれていて、意味は全くわからないのに、なんだかとてもよくわかる。‥‥ぶらんぶらん、箱酔い。 みんなぶらんぶらんと揺れはじめ、箱もどんどん膨(ふく)れだし、今夜も街を包みこむ、包みこむ夢を、箱が見ている。箱の中で、私が見ている。 それが私にとってのライブハウス。

アルチンボルトか国芳か

マニエリスム*で軽くくくれてしまうような御仁  ではなく歌川国芳、である。 芸術家・絵師のように格好つけるもなく、洒落好きダジャレ好き、大胆繊細反骨気骨。「おもしれえだろ?」そんな声が聞こえてきそうな「国芳展」をそぞろ観想してきたので少し感想。 まず、手足の「指」の描き方が好みだ。ぷりぷりとして良し。私も普段そう描きます。さらに武者絵の筋肉は、古松の幹のごとく奇異なほどに隆々(りゅうりゅう)、それもまた良し。 ヒレで立って歩く!金魚たちの愛らしさ、竜宮城では魚たちが舞い踊り(浦島太郎もこりゃあ帰りたくなくなるわ)の面白可笑しさ、水滸伝の豪傑、妖怪幽霊、ネコトラタヌーキ**、福助福神から地獄まで。 画面いっぱいジグザグの、「赤い」稲光。こまかい集中効果線、まさに現代劇画のルーツかは‥‥と等々、そのザ・ワールドを語るに枚挙イトマなく、以下簡単にふたつだけ、まとめておきます。

ハーメルン身悶え夜

先日、『イタチョコ座の怪人』第一夜 に参じた。 ライブハウスの舞台には、ラショウさんと4人の仲間たち。 セリフ劇の合間に、悲哀とユーモアの入りまじった歌が入るという構成。 途中、ラショウさん作のiPhone用ゲーム*の発表も含め、わざわざ神戸からの出張公演だ。 <あらすじ> ある夜、俳優志望の女性が地下室の劇団にやってくる。 出迎えたのは、文字通り怪しげなイタチョコ座の怪人(ラショウさん)と、手作りロボットの助手。あきらかに女性の目的とはちがう劇団。しかし強引でとんちんかんな勧誘を受け、入団するはめに。 女性と助手は「鼠」役となって、今度はイタチョコ座の怪人をたぶらかす。鼠たちは怪人が作った「鼠格(鼠の人格)」を有し、しかも二役を都合よくクルクルと使い分けながら、怪人を「ハーメルン**」に仕立て上げる。その見返りとして、ふたりは際限なく怪人にお米をねだるが‥‥ 劇中劇のハーメルンがいい。 となりの部屋から聞こえてくるミシンの音。自分もギターを弾いて、こっそり合わせてみる。そして売れ残りの「人形」たちの歌。椅子から立ち上がり身悶えるジェスチャー、叫ぶような歌声。狭い空間にはもったいない。広い舞台があればいいだろうになぁと思わせる、ラショウさんの熱演。 すべては夢か?幻か? 現実の地下のライブハウス / 架空の「イタチョコ座」 / ハーメルンの部屋、ラショウさん / イタチョコ座の怪人 / ハーメルン、劇団員のふたり / 二匹の鼠 / 人形・ものたち。これらと、劇中劇も折りこまれて、すべてが二重三重に張りめぐらされた奇妙な幻想空間。 入れ子の空間を演出しきったラショウさん、素敵な共演者とともに、満足だったのではないだろうか。 「ぬぅぬぅ、はい!」(縫う縫う、針)  くねるように歌う姿がよかったなぁ。 *イタチョコシステム『あの素晴らしい弁当を2度3度』と、もう1本。2月にリリース予定とのこと。 **童話『ハーメルンの笛吹き男』より。不思議な男が笛を吹いて、たくさんの鼠をあやつり街から追い出す。

【夢466】

(夢466番は長くてツイートしきれないため、このブログに記す) ローカル線*で 架空の東府中に行った 閑散とした住宅地の先 少し開けた土地 に点々と廃墟となった 昭和初期ごろの木造建ての家々 すばらしく気に入る 「カメラ‥‥」私は携帯もデジカメも 忘れているのに気づく 高い壁の向こうでは工事車両が 轟音を立てている 「近いうちにまた来よう」 でも帰り道がわからない 遊んでいた男の子に 声をかけ 駅まで案内してもらう 駅舎のベンチ 電車を待ちながらジャケット姿の男と話す 彼がカバンを開けると うどんがたっぷり 薄い色のうどんツユを持ち 箸でカバンからうどんを食べ始めた 「これじゃ無理だ」見ると彼の左手がふるえている ふたりでそのふるえをじっと見つめるが 止まらない 気がつくと電車が来ていた 入り口に係の中年女性がいて 整理券を取れと促される 運転席で運転手がふたり 前の車両の運転手と 困り顔でボソボソ相談「大丈夫?」「まずいよ」「どうする」 三人とも若い女性 車内は黒い木の床に 安っぽい樹脂のひとりがけイスが ぽつぽつ 座るとやっと出発 運転手は中年男性に替わっている「20分遅れで発車です」轟音 ひどく揺れる 架空の八王子に着き 出口で運賃 係の中年女性が 料金がわからずあたふた 同僚に聞いてやっと「430円です」私はむっとして新しい長財布から 小銭をめちゃくちゃにまぜて 433円出す「あっ3円はいいです」と返され なぜかますます腹立たしい 駅を出て歩いていると 路地から 変な髪型の老人が自転車で飛び出してきた のでふり返り「危ないよ!」とめずらしく大声で怒鳴り** 小さな声で「 気をつけてね 」とつけ加えた 老人に「逆ギレ」されるのが怖かったのだ *筒井康隆 著『夢の木坂分岐点』に出てくるような市電。自分の深層心理に迷い込んでいくような、 奇妙な 入れ子状の小説。似かよった小説として『脱走と追跡のサンバ』も。こちらはさらに奇妙奇天烈で 好きです。 **夢で叫ぼうとしても、たいていは声がかすれ、何度か苦しみ、実際に叫びだしながら目覚めてしまうのです。

「龍」は全部入り

漢字「竜」と「龍」。 「竜」は西洋のドラゴン。「龍」は東洋風。そんなイメージ。 龍は皇帝のシンボル。皇帝だけに許された特別な意匠だった。 「おれだって龍がほしい」と思った昔々の中国のお役人、 いろいろな動物のパーツをよせあつめ、龍もどきをコラージュしてしまった*。 足の指も1本減らして4本に。つまり龍であって龍でなし。 パンダ じゃないけど パンダ、ガンダムだけどガンダム じゃない 、という軽業(かるわざ)。 そう、餃子でも肉まんでも、皮という皮、あっちではすべてが「分厚い」のだ。でも、食べたいのは・美味しいのは・楽しみたいのは、<具>の方。 そこへいくと、本物の龍。まさにコンテンツ。ぎっしり詰まっている、<具>。 なんといってもあの果てしなく長々しい胴。そこに、みっちりぎっしり、大量の鱗(うろこ)。大地にあっては「龍脈」という「気」の流れとなり、川となり海となり谷を刻む。 スケールがいい。猛烈にでっかい。 すべての漢字は「龍」の文字から生まれたという観想。さもさもありなん。山も川も木も森も、大地に涅槃する龍の体から「成る」。漢字ってそもそも絵なんだね。大昔の趣味人なんかが、しれっと酔狂で、大地の龍のからだの一部をデッサン。「この絵、山のことにしようよ」「いいね」 そんな感じで、漢字。 龍はそこにいるのだけど、あんまりでっかいので、見えているのに、見えない。人は、漢字や歌によって、風景を感じ、「ああ、あれが景色なんだ!」と自覚した。それは言葉が 景色(龍) を発見した瞬間。 と、ここまではものの本**にも出てくるようなお話。 私はこれに「時間」をかぶせておきたい。龍が見えないのはでっかいからでもあるけど、「遅くて早くて、さっきでこれから」みたいな 存在/非在 なのだと思う。つまりあれは、世界の、1本の、壮大な「時間軸」じゃないのかな。面白いね。どう? とにかく、あの鱗の一枚一枚の下には、なんだかいろんなものが隠されているみたいだ。 *上海の「豫園」という庭園にある、龍の彫り物 **たとえば『日本空間の誕生』阿部一、 『中国山水画の誕生』マイケル・サリヴァン、 『龍の住むランドスケープ-中国人の空間デザイン』中野美代子

【夢460】

(夢460番は長い夢で、ツイートしきれないためこちらに記す) 未来 港の倉庫街 「電子道化(どうけ)」がパフォーマンスしている ヤツは 大きなシルバーの手裏剣 をかざして 私と上司に向かって 投げつけてきた 狙ったように 私たちの足もとすれすれに 突き刺さる 酔っ払い・やさぐれたち やんやの喝采 「次は壁を突きぬけます」と電子道化 私たちの横をかすめ 2mほどの手裏剣が 倉庫の壁を切りさく 配電板が壊れ 電気が激しくショート 小火事 皆 興ざめの様子で解散 私は事務所に戻る ふと気になり 雑庫にいた後輩の女子に「まだ未来は残っているかい?*」とたずねると「見えるわ。テロね。機能マヒが起こる」 私はあわてて上司に告げる 二人で電動リニア車に乗りこみ 郊外へ急ぐ 後ろからは 見えない機能マヒの波が ぐんぐん押し寄せてくる 高速道の車も次々やられ 停車していく 最高速で飛ばし 何とか山間の場所に 車を乗り捨て 上司は入り組んだせまいくぼ地に ダイブ そのままシステムにジャックインする 彼は隔壁操作をし 無事 システム障害から中枢部を守る ゆっくりと下から 浮上してきた見知らぬ男「前の体は汚染で崩壊してしまったからな」上司だった よく見ると 借り物の体はまだ所々 ラグが残っていて不完全だ 私たちは車に乗りこみ 帰路につく ほっとする時間 運転をする上司の新しい横顔には まだ違和感をおぼえるが やがて慣れるだろう と私は思う *後輩の中に、未来のかけらが残っていた。我々は1本の時間軸の上にいて、過去から未来まで つながっており、 「ある点の自分」と「別の点の自分」がオーバーラップを起こすことで、記憶が前後する現象が起きる。 彼女はその現象に敏感なタイプなので、もしやと思い、 私は このとき彼女にたずねてみたのだ。 (以上は、この夢の中での理屈)

サマ的龍ノ年

新年あけましておめでとうございます。 「正月やさかいに何ぞ面白いことあらしまへんか」と、このブログにアクセスしていただく方も ありましょうやと思いつつ発想めぐらせておりますので暫しお待ちくださいますよう。 まずは辰年につけ、龍についてのあれこれなど後日あらためましてアップいたします。 さてもさても サマの今年は 1)大きい絵を描く(カンバスはふすま) 2)ライブ(音楽をやる方にご一緒させていただき) 3)古典的個展(場所が見つかり次第) 4)『奇人圖譜』を 紙の本化(文庫サイズ・奇人倍増 100人) 5)『奇 庵 圖譜』を描きためる(綺想建築のシリーズ) 6)作品をまとめてカタログに(A4サイズ) 他)ネットを飛び出し、音楽、演劇、舞踏 いろいろな方たちに会いに行きます (このブログを見てくださる方や、Twitterのフォロワー皆さんにもお目にかかりたく) いっさいがっさいひっくるめ、阿呆がごとくに軽々と、ざっぱざっぱと波こえて 龍の背中で舞い踊る、サマの二千と十二年、お気にめすまま気の向くままに 何とぞおつき合いのほど、そろりそろりと よろしくお願いいたします。 <1/22追記> 上記に「 6)カタログ」を追加しました。