20160823

踊る絵、絵でない何か、へ。

今朝のこと。
自分の中を整理/そこにボリュームに対する希求心を発見した。
それはつまり、「垂直方向・3次元・空間・造形」への欲望。

自分の作品を振り返ってみるに、

・迷路のような絵(右に作品リンクあります。以下同)
・奇人(キャラクター = 2次元のフィギュア的)
・立体絵(粘土による「立体の線」。どこからでも見られる絵)
・作品集(本・冊子という手応えへの欲望)
・個展の見せ方(ネットを吊るして絵を引っ掛ける手法/2013年の個展にて)
・3DCG(これもディスプレーで見る立体物) などなど... 

すべては立体的なものに通じる道なのではないか?

私は「遠近法」に反感を抱いている。それは2次元に、計算で作り出す「疑似立体」だから。どうもニセモノの臭いがする。「本物そっくり」という「ニセモノ」。
そこで大和絵の「投影図法」に注目した。大和絵のような、べたっとした空間は視点を選ばない。均一で平等、無垢な表現に思える。巻物による、横スクロールの世界もこれに近い。
遠近法の世界は、視線はただひとつに固定される。とても私的で、絶対的な世界。宗教。

では、もっと広く考えてみよう。
絵それ自体も、大きく捉えれば、2次元に対する限定された視点を与えるものだ。それは「正面」から見なくてはならない。横や後ろからは見えない。
絵という構造物は、3次元に存在している。しかしそれは3次元から切り離され、独自の世界を内包し表出している。正面から見えればそれでよい、と主張している。絵そのものが、何百年もそう主張しつづけてきた。
これは網膜のサーカスだ。マルセル・デュシャンは網膜に訴求するだけの絵を批判している。絵を疑い、絵の存在性を疑った。私は彼とは少し異なり、絵の拡張性・可能性に注目している。

まず額縁がある。より絵の存在と現実空間とを分離するための道具(装置ですらない)。それどころか、権威まで付加してしまう(鬱陶しいかぎり)。
そこで画家も考える。額縁をやめ、キャンバスをやめ、別のものに描いたり、別のものに絵を入れてみたらどうだろうと。彼らは、絵の世界に寄り添う、新しい装置を見出そうとしている。この辺から、絵という存在が「厚み」を増してくる。
厚みのある世界、存在感。ここで言いたいのは、描かれているものの性質にとどまらない、物としての絵である。網膜の遊戯ではない、重みのある、身体性をともなった価値観のこと。身体で体験する感覚のこと。

ここまで書いてきて、いろいろな批判・意見が耳元で聞こえてくる気がする。「そうじゃないだろう、見ることも体験であり、体感だろう」「イメージこそ大事だろう」「物を越えるからこそ素晴らしいのだろう」「そもそも絵としての素晴らしさに、物としての存在感は関係ないだろう」。
確かにそうであり、でもそれだけではない。

所有という行為(体験でもある)を考えてみればわかる。絵が好きな人が、絵を所有しない(買わない!)。どこかおかしい。私には不自然に思える。本は借りずに買うのに? CDやビデオ、作品集も。本当に大事なものは手元に置いて何度も鑑賞するし、あるいはめったに見なくとも、所有の安心感、気持ちよさを味わっているはずだ。

絵は?

所有というのは、物質を説明するための一例に過ぎない。レヴィ=ストロースの言うところの「交換」でもいい。もう少し絵と交換をしてあげよう。絵を通じて誰かと交換するのもいい。(ここで言う「絵」とは、原画あるいはそれに近い物のこと。印刷物や写真ではない。)

絵にもそういう「物」としての可能性を見出してあげようよ。
・・・言いたいのは、ただそれだけ。
その方が表現や鑑賞の幅が広がって、がぜん面白くなると思う。体験の質も変わるだろう。

実はもうすでにそれを活発に、貪欲に行っているところがある。「二次元と二次元半」「キャラクターとフィギュア」「グッズ」の世界だ。なんだ、オタクか・・・いや、それは表面的な分類に過ぎない。これほど純粋に、網膜と身体性をなめらかにつないでいる様態はめずらしいのではないか。(もっとも私の見識が狭いだけで、世界中に、歴史上に、いくらでも同じような現象は見られるのかもしれない。)

たしかに目と脳の交信、そして言語で、それはそれはすばらしく高尚で理想の高い、精神世界が成立し拡大するのかもしれない。しかし、身体は置いてけぼりではないか? あなたが理想世界を考え、誰かと意見交換し、でもそのとき身体はどうしている? 身体は静かに眠っているだけではないのか。絵を見るときもしかり。手は、足は、皮膚は? 身体は見る行為に追従するだけの奴隷なのか?

踊ろう。
絵に踊ってもらおう、私たちも絵に手をたずさえて踊ろう。
「垂直方向・3次元・空間・造形」への欲望とは、そういうことだ。
見るだけの絵があるように、見るだけではない「ただならぬ絵」があってもいい。
・・・絵ではない、彫刻でもない、なにか新しいもの。おそらく呼び名はまだない。

私は今後、少しずつそういう作品も作っていくことになります。通俗的でガサツ、それこそゲイジュツ的な(そのような形容詞すら不要ですが)作物・鑑賞雜具になるでしょう。
新しい試みも、どうぞよろしくお願いします。



20160509

路上絵描きのこと(秋葉原 編)

路上絵描きを始めて数年。
路上での絵描きは、楽しい。集中できる。
一期一会、通行人との一発勝負。
絵も、下描きなしの一発勝負。

ペンさばきは速くなった。
ぐずぐず描いていては、人を魅きつけられない。
いつ、どんな場所に立って、どんなふうに見せるか。
歩く人や街の迷惑になってもいけないが、目立たなくては意味がない。
もちろん、第一の目的は自分が楽しく面白い絵を描くこと。

4月下旬からゴールデンウィークにかけて、毎週日曜日に秋葉原の歩行者天国へ。
秋葉原でずっとやってみたかった。できれば「秋葉原らしい」絵を。
アキバを闊歩する彼らに対して、私の絵は訴求できるのか? 
そういう「勝負」。

結果は、どうだったろうか。
外国の方「写真いいですか?」と丁寧に聞いてくる。もちろんオッケーです。
日本人は「スッゲー」。遠巻きに、あるいは通り過ぎながら「スッゲー」。

印象的だった肌の色の濃い外国の女性。本当に無邪気に絵を喜んでくれた。ハッピーな波。
中華系らしき男性。気さくにいろいろ話しかけてくれた。「がんばってね!」爽やかに去っていく。

ほかには、祝事帰りとおぼしき男女のグループが足を止めてくれた。
絵の女子学生の顔 はクマであるが、それを「はがしてみて」と私は言い、青年がおそるおそるはがしてくれた。クマの下には、前もって女の子の顔を描いておいた。小さな歓声と拍手。

秋葉原らしい雰囲気の若い男性が「完成した絵はどこかで見られますか?」と聞いてきてくれた。私は敬意を表して彼に名刺をお渡しした。
・・・こんな感じだ。「勝負」の結果はわからない。

おかげさまで今までにはないユニークな絵が描けた。マンガっぽさもあるし、いいと思う。
その場その時だけのエネルギーがこうやって絵にたっぷりと注がれる、路上絵描きの面白さ。

画像クリックで拡大します○秋葉原の街並と、クマのかぶり物(別紙なので脱着可能)をつけた女の子。ぶっ放すマシンガンのマガジンには、弾のかわりに札束、打ち出すのはハートだ。細部もたっぷり、隠れた意味を考えればいろいろと楽しめます。所有したいという方に原画をお譲りします。

20160402

2016 今後の予定(5/1内容更新しました)

○作品集『異極考』5月1日発売
異極鉱という変わった石を、ひたすら100枚描きました。
その時々で変わっていく、さまざまな石の景色をぜひご覧ください。
※5/1発刊いたしました。紙の本・データ本ともBCCKSで入手できます。
http://bccks.jp/bcck/143900


○作品展示
栃木県那須郡那珂川町にある金子酒造 その酒蔵にて31点を展示します。
ゴールデンウィーク中に、那珂川町のお祭りの一環として実施します。
期間中は、町のあちこちでライブや展示が行われるそうです。
http://nakagawamachi-kanko.org/recommend/detail/105

○路上絵描き
4〜7月にかけて、下北沢・銀座・秋葉原などで行います。
下北沢で描きはじめた細かい絵は、先日仕上がりました。
銀座ではたくさんの人に見ていただけました。
次、秋葉原ではアキハバラ的な絵を描いています。

秋葉原 2016.4.24.


○作品集『左馬全作品』2011〜2016
オールカラーで200ページを越えます。夏までには発行。
昨年出したかったのですが、デザイン面で納得がいかず
編集作業の時間がかかっています。

●ツイッターをしばらく休止します
ツイートや作品画像は残しますので、ご興味あればご覧ください。

以上、4月になりましたので、諸々のお知らせまで。
いつかどこかで私の作品が皆様のお目にかかれますように。

20160214

作物

私の描く絵は、下書きがない。エスキースがない。
無意識と意識のあいだで描く ・・・と説明してきた。
あらためて思うに、それは「駄」あるいは言葉はわるいが「糞」ではないか。

自分では座禅を組むように絵を生みだし、最終的には1作にまとまるように
意識の割合を多くしていって仕上げたつもりである。
しかし実際は野方図で、好きなようにばらまいたタネに水をやって、
たまたま育って実をつけてくれた程度のもの。そんな気がする。
作品と呼ぶのもおこがましい。品のない、作物(さくぶつ)とでもいうべきか。
(しかし分厚い辞書を引けば、作物も芸術作品の意とあるのだが。)

では(私にとって)作品のあるべき描かれ方とはどのようなものか。

まずはじめに意図や欲求があり、
それに沿いながらも意識と無意識のやりとりで織りあげていくもの。
そして何より、その作業の折々に、見えない鑑賞者との対話が
果たされなくてはならない。

その絵は何?、おもしろいつまらない、何かを感じる感じない・・・・

伝わる何か、納得できたり、刺激や面白味が含まれなくてはならない。
これらのバランスを上手にとり、謙虚に大胆に描いていくこと。

作為がすぎれば、それは意匠、グラフィックデザインとなってしまうし、
無意識がすぎれば、鑑賞者に届くもののない自己満足、欲求の発露でしかない。
特に後者は快感をともなう。無意識をうまく使えばいくらでも奇妙な絵は描けるし、
世界を手に入れたような高揚感がある。
結果として何かは出来上がるが、「駄」であり「糞」である。

私は自分の作ったものを愛さない。自作を愛すなど気味が悪い。
しかし敬意ははらう。鑑賞者がいるかぎり、作品は大切な存在でありつづける。
個展をしたり画集を作るのは、つまりそういうことだ。
作品に働かされている。手間や時間やお金を使う。

話を戻せば、先述の三つのバランス、これがひどく難しい。
慎重にはじめようとすると、1本の線すら引けずに立ち止まってしまう。
長い長い黙考。
気ままに始めると、質量が軽くなる。線がスカスカと抜ける。
思いが全く反映されない。

自らを高め「作品」をものすべく、しかし今はまだ立ち止まる日々だ。
立ち止まるな描きつづけろ、という声も自分の中からは聞こえてくる。
ホルスト・ヤンセンは、四六時中、画線を引き続けていたという。
そういうがむしゃらさは好きだ。まさに私も頭を空にして、線を引いてきた。

しかし今は、自分の絵にもっと「モチーフの力」「文脈・物語」を与えようとしている。
・・・それが難しい。

20151225

2015年のふりかえり

2015年もいよいよ年の瀬。

恒例の、1年のまとめをしておきます。

□ 『蛇腹島奇譚』‥‥CDも無事完成し、蛇腹姉妹さんのお披露目ライブに絵描きで参加。
□ 路上絵描き‥‥下北沢にて数回。
□ 人を描く‥‥キャラクターをたくさん作りました。一部はゲームになります。
□ トークと絵描きライブ‥‥「てんとせん」を2回。中島弘貴さんとの共催。
□ 頒布会‥‥「文学フリマ」に出展、共作『夢』『奇人圖譜』など販売。不二家さんと小さな合作
□ その他‥‥新しい試み「環境絵」「異極鉱シリーズ」

描きかけの大きな絵があるのですが、ほとんど手つかず。小さな絵はいろいろ描いていました。
新しい試みを始めていますので、簡単に説明します。

①「環境絵」: 身近な景色(テクスチャ)を取り入れて絵にし、もとの景色と一緒に写真に撮ります。
コンクリートの質感をモチーフにして、こんな感じです。



こうして見ると、絵がまだまだ実物の力に負けているように思えます。
実物と絵の、一騎打ち。
一枚の写真に収めることで、虚と実の関連性や存在そのものをあばこうとする試みです。

②「異極鉱シリーズ」: 異極鉱という変わった石を入手。同じ石をひたすら見つめて、多数描いてます。



見つめつづけることで、いったん固定観念の世界から脱却します。その先は混沌の世界(無の世界)。
それだけでは表現になりませんので、ふたたび意識の世界に戻ってきます。そのとき、どんな絵が生まれるか。(そこまで到達せず、何も生まれないかもしれません)
ちなみにこの手法は禅の世界に則しています。

③「キャラクター制作」左馬の世界を商業ベースに乗せていく、その前段階。クライアントありきで制作しましたので、まだ左馬の世界を売りこむまでにはいたっていません。

これらの試みは2016年へと続いていきますし、「人」「街」「絵」「思考」の境界を曖昧にしながら、
相互にエネルギーの交換を、私という媒体を経由させながら、より活発にさせていきたいと思います。
これからも私が描く絵たちを、愉快に楽しく意味深に感じていただければ幸いです。

20151010

イベント「てんとせん」第2回のおしらせ

2015.11.7(土)に、中島弘貴さん(作家、演奏家)と、おしゃべり会を行います。
7月に続き第2回です。今回のテーマは「神話」。中島さんが様々な著作を紹介、神話についての思いを話してくださいます。私も話を広げていきながら、皆さんと思いを共にできればと考えています。

前回は本当に大勢の方にお越しいただき、濃い時間をじっくり共有できました。不慣れで手探りのイベントではありましたが、お客様からのご意見や質問もいただきながら、充実した楽しい時間をすごせました。自己満足で終わらせないために、その後、私と中島さんで反省会をし、第2回に備えています。

第2回の前半は、トークライブの形で、神話をテーマに縦横無尽にお話をします。神話の不思議さ、なぜ人は神話に魅かれるのか、神話が語ろうとしていることなど、広い視点でおしゃべりします。
後半は、柴田高志さん(画家)をお招きしての絵描きライブ。中島さんの歌と演奏とともに、私と柴田さんとで大きな紙に絵を描いていきます。今回は二人で別々の絵を自由に描いていきますので、2つの絵を見比べて、また中島さんの歌もゆっくりお楽しみください。

創作する人もしない人も、何か新しい生活の切り口を、ワクワクするヒントを、愉快な思考のかけらを、このイベントで見つけていただければ幸いです。

それでは11月7日の土曜日、お待ちしております。

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「てんとせん 2」
出演▶サマ(左馬漣)・中島弘貴 ゲスト▶柴田高志
内容▶絵描きとトーク
日時▶2015年11月7日(土)17:30オープン18:00スタート
会場▶ cafe ぽれやぁれ
東京都杉並区高円寺南3-44-16 ※ JR高円寺駅 南口から徒歩5〜10分
03-3316-0315

参加無料▶ドリンクオーダーと投げ銭をよろしくお願いします。

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会場「ぽれやぁれ」のサイト http://poleyaleyaleyale.blogspot.jp
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中島弘貴さんのサイト http://ototogengo.exblog.jp
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20150613

イベント「てんとせん」おしらせ

2015.7.19(日)に、中島弘貴さん(作家、演奏家)と、おしゃべり会を行います。
中島さんとは年何回かお会いして、長々と四方山話をする仲です。
私はこの長いお茶会を、もっと多くの人と共有してみたいと思っていました。3年経って、「そろそろやりましょうか」という感じで話はまとまり、場所も見つかったので7月にイベントとして行うことにしました。

中島さんは読書家で、西洋文学や文化・博物学・思想などの本を読み、とてもよく把握していらっしゃいます。私はその話をうけとり、様々にイメージを広げるのが好きです。
今回はそんな役どころで、私たち二人がおしゃべりをし、また大きな紙に絵を描くなどしていきます。話の内容を吸いこんで、新しい絵が生まれ、成長していく様子を皆さんに見ていただければ幸いです。

また参加される方には、ひとつ「言葉」を考えて来ていただきます。その言葉を紙に書き、おしゃべりや絵の中へと反映させていこうという趣向です。さらには参加される皆さんもおしゃべりに加わっていただければ、よりいっそうこの集まりが深みを増すと思います。

タイトルの「てんとせん」、その「てん」は私たちであり皆さんであり。それを星座のように「せん」で結ぶと、さてさて、どんな星座が浮かび上がるでしょうか。言葉で、絵で、空気で、想像で、感じてもらえれば何よりです。
創作する人もしない人も、何か新しい生活の切り口を、ワクワクするヒントを、愉快な思考のかけらを、このイベントで見つけていただければ本望です。

何ぶんはじめての試みですので、不備や至らない点も多々あるとは思いますが、どうかご諒恕のほど、よろしくお付き合いくださいますよう。

7月19日の日曜日、お待ちしております。

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「てんとせん」
出演▶中島弘貴・サマ(左馬漣)
内容▶絵描きとトーク
日時▶2015年7月19日(日)17:30オープン18:00スタート
会場▶ cafe ぽれやぁれ
東京都杉並区高円寺南3-44-16 ※ JR高円寺駅 南口から徒歩5〜10分
03-3316-0315

参加無料▶ドリンクオーダーと投げ銭をよろしくお願いします。
ご来場の方は、絵や話題にしてほしい言葉をひとつ考えて来てください。

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会場「ぽれやぁれ」のサイト http://poleyaleyaleyale.blogspot.jp
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中島弘貴さんのサイト http://ototogengo.exblog.jp
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20150215

日本的なるもの


最近、私は日本的なるものの間を逍遥している。
浮世絵、万葉集、日本人学、柳田・折口、松尾芭蕉、利休、河合隼雄。

さて、芭蕉といえば「わび」「さび」。
しかし、彼はもともと、20年ほど滑稽なる歌作り=「俳諧」に邁進していた。
当時の主流は、和歌の流れをくむ「連歌」。それは華美の様式。いっぽう「俳諧」は連歌から派生した、ダジャレ・パロディの世界(貞門風や宗因風)。
芭蕉がわびさびの俳句を極める(蕉風)のは、その後、死去するまでの10年。
もちろん俳諧師のころから、その実力は地方出身者としては突出、才能を発揮していた。(芭蕉は三重県伊賀の出)
それにしてもあの芭蕉が、作句人生の2/3は、面白可笑しい俳諧作りに明け暮れていたのだ。おそらくは陽気にゲラゲラ笑いながら、仲間たちとともに。

さて、俳諧をなすにあたって、パロディの元となる出典にあたることが必要となる。つまり古典などの教養や言語センスがあるからこそ、ギャグを楽しめるのだ。俳諧師たちは『荘子』を愛読していたという。
しかし芭蕉はある日気がついた。知識や形式としての古典ではなく、その情動、心の動きこそが大切ではないのか? 彼は古人の心をおもんぱかる必要を説いた。こうして俳諧を脱し、俳句というものが姿を現してくる。

芭蕉は、「わび」については具体的な説明をしていない。いちばん肝心な部分は、あえてそのままに。これが大事。千利休もそうだった。
核心はシンボルとして、言語化せずに「宙に浮かせておく」べきなのだ。河合隼雄はこれを「空」として、日本人の精神構造の核にあるものだと分析している。
「言わなくてもわかるでしょ?」「それを言っちゃあおしまいじゃないの」「野暮は言いっこなし」‥‥ 何事にも察してほしい部分というものがある。そのへんの微妙なやり取り、つまり日本人の美意識(習性)だ。
私はこれを「ちくわ」に例えたい。ここで失笑しないでほしい。冗談のようだが、日本人がグローバル時代に主張すべきキーワードである、と真剣に考えている。

一気に「わび」から「ちくわ」に話が飛んでしまった。
中央が穴であることと、押したときの弾力のかげん、穴への出入りが可能であること、そういった特性が、現代社会の限界を乗り越える可能性を秘めている。昨今の悲痛な「負の連鎖」を、やわらかく受け止める緩衝剤としての、日本的な良さをいまいちど深く考えてみるべきではないだろうか。

(うまく書ききれなかった部分はどうぞ「お察し」のほど。)


20150103

今年は…(2015.1.2.)

正月になりました。
2014年は、思いのほか計画を実現できませんでした。
理由は、絵描きではない通常の仕事が「こじれて」いたためです。

結果、
絵描きとしての「左馬」と、普段の仕事を近づけてみる1年になりました。
たとえば、作品を描いたり整理したり、新規に持ちこみをしたり。

一昨年までの、自由奔放なあれこれは、ほとんどしていません。
個展もなし、絵描きライブもなし、実験的な創作もなし。

以下、2014のまとめ。

□ 夢の本‥‥不二家氏との共作で実現。http://bccks.jp/bcck/124898
□ 路上絵描き‥‥秋葉原にて。新宿、銀座ではせず。
□ 色彩を使う‥‥絵本制作や、デジタル作品などで実現。
□ その他‥‥『蛇腹島奇譚』CDジャケット絵(蛇腹姉妹さんのアルバム)

これぐらい。
大作も作りませんでした。小さな絵はいろいろ描いていました。

『蛇腹島奇譚』では、鑑賞する人が抱いている「左馬が描く絵のイメージ」に
私がアプローチしていく、つまり「期待にこたえる絵を描く」という作業を経験。
多くの時間を費やし、よくもわるくも苦労をしました。

さて現在、タッチの変化が訪れています。変えていこうという意志があります。
さらに、時々は「人」も描いてみようと思います。
(今までは、人は人が大好きなので、私は反抗し、なるべく避けていました。)
もちろん「見る人の脳裏にこびりつく」「心の無意識にこっそりと巣を張る絵を!」
という目的は変わりませんし、ますます奔放な絵になっていくかもしれません。

2015年も引き続き、左馬の世界を商業ベースに乗せていく、いやむしろ
左馬の閉じた絵の世界を、大衆媒体に乗せるアプローチをする、という
ことになると思います。

一般展示会やコンペに出すなどという、まどろっこしいことはしません。
人の働いているところへ行き、アピールし、話し、感じてきたいと思います。
その方が直接的で、刺激的。受け入れられるか、否定されるか、無視されるか、
やってみなけりゃ分かりません。人と人との間には、いろいろ起こりうるからです。
何ともおもしろいではありませんか。

これからも私が描く絵たちを、愉快に楽しく意味深に感じていただければ幸いです。

20140613

雲を観ず

雲を見るなら時間をかけるのが良い。

目が慣れてくるにしたがい、グレーの濃淡の味わいが増す。
同時に、ひとかたまりの雲の中に、階層や前後関係、奥行きの違いなどを見分けられるようになる。

想像をめぐらせ、その形を未開の台地にたとえるも愉快であるし、動物や物に置き換えるのも楽しい。
墨絵のように鑑賞するもいい。やがて鮮やかな色彩がとりどりに心に映されていく。
実際、灰色の階調の中に様々な色を見つけることもできる。それが夕焼け朝焼けであればなおのこと。

そしてすべては時間の移ろいをもって変化してしまう。
気に入った色も形もとどまることはない。
絶妙な象りは、細かな輪郭をもち記憶にとどめておくのもむずかしい。

雲を見ることは時間を見ることであり、消尽してゆくものを後追いする、はかない愉楽の連なりだ。

20140610

境界の絵

芸術の「何が」、どういう要素が、人の心に入りこみ、感覚を刺激し、記憶に残されていくのか?
錬金術でいうところの賢者の石、レヴィ=ストロースの神話素、ユングの集団的無意識・・・。河合隼雄は「無意識に形態はない。反応しようとする様式があるのみ」と指摘している。
つまり図を描くことはかなわず、地(背景)を埋めていくことでぼんやりと輪郭が生じるだけ。それを亡霊と言ってもいいし、ルブナン、境界と言ってもいい。
感覚の心理のハンプティダンプティ だ。(※壁の上に座って落ちそうに揺れている玉子の形をした奇妙な人物)

さて、絵を考える。
こういう実験はどうか。
具象画と、抽象画。そのぎりぎりの境い目にあるような絵 をたくさん描き連ねてみる。
これを1枚ずつ鑑賞してもらう。
数日たって、印象に残っている絵があるか をたずねる。
それは好きな絵ですか、好きではない絵ですか?

人間は人間が好きなので(種の保存上の必然)、人の要素が入っている絵
はまちがいなく好成績を収めるだろう。これは予想できる。
嫌いなのに印象に残ってしまう絵 これは興味深い。
我と我が意に反して、不快の絵の何かが染みのように心にこびりついてしまうことがあるとすれば
それはもう心理学、カウンセリングの領域。きわめて個人的な・・・
しかしそこまでは触れるまい。関心の的は人でなく、描かれる絵なのであるから。

年の後半、このような絵を多く描いてみた上で、パノプティクな装置として鑑賞者の声を聞いてみることにする。・・・前回の記事「今年の計画書き」への追加。

20140212

2014 計画書き

・夢の本を出す
  1. 夢を楽しみたくなるような冊子
  2. 夢の標本をまとめたような冊子( twitter.com/sama_
・らせん状の曼荼羅 など大きめの作品を描く

写真と絵画/虚構と現実 を曖昧にした作品を作る

・漫画 あるいは 戯画を描き、本にする

・色彩を使う(これまでペン画だったので)

・展示会へ出品する(8月)

・共作をする(いつでも誰とでもどんなふうでも)
 ライブ絵描きは、サックスに合わせてやってみたい
(今まで共演してくださった方々とももちろん)

・どこか小さな喫茶店で、地味な個展をする(地味な季節に)
 または 作品をかついで即席の出張個展をする「個々展」

・秋葉原で路上絵描きし、通行人の足を止められるか?
 あるいは 銀座で西新宿で また東京以外で

・・・・・・

やりたいことは他にもあるけれど、今年の予定としてはこれくらいで。

追記)
・夢の本と、漫画に関してはすでに制作を開始しました。
・路上絵描きは4/6に行いましたが、春雨で中断。ゴールデンウィークころから本格的に。
・色彩を使った絵は、twitterにて公開しはじめました。色は愉快です。twitter.com/sama_box

20131231

2013年 年末のまとめ

身体に絵を描き表現する目論みはかなわず、年末を迎える。
今年の総括を。

印象的だったのは、9月の個展。
オルガンヴィトー塔嶌さんのお力を借りて、満足いく会場作りができた。
もうこれ以上の、手間ひまお金をかけた個展はやらないだろうと思う。
ご高覧いただけた皆さまには、ずっと記憶に残していただきたいと切に願う。

絵描きライブは、実にバラエティー豊か。
『Hyoruka』、『互感ライブ』、テールエヴィ店内への絵描き 2回、
『蝸牛の音楽教室』。まったく違う経験、愉しみがあった。

身体性について。
肌に絵を描くことに関して、AZUさんにお話しをうかがったのも収穫。
そこには「祈り」があるというお話。
4月にはフィギュアスケートを生で見て、得るものがあった。リンクは1枚のタブロー。
演劇は『大きなトランクのなかの箱』『幻探偵2』が最高に良かったが・・・
身体性と、劇場・役者の関係性など、私が求めているものに対する答えはそこには
見当たらなかった。

路上絵描き。直接的・刺激的な体験。
ここから始まった交際や、一瞬の出会いと別れ、絵を街の空気にさらすこと。
すべては描くこと、生きることへの欲求につながる。根本的なもの。
攻撃的であり、友愛であり、刹那の夢、あるいはなんでもないこと。

以上、今年の制作物は、「立体絵」「奇人圖譜 百八體」「作品集2」「カード絵」
それに 路上で描いた絵、机上で描いた絵、ライブで描いた絵。

最後に。
出来上がった作品自体が、作者に催促して個展をやらせたり、時にはなんと
作者を罵倒したり軽蔑することが あり得るのではないか?
・・・という気がしている。

2014年。
計画もできているし、プロジェクトとしてすでに進行しているものもある。
詳細はまた年明けにご報告。
色彩は、やります。

20131224

個展より〜⑦『夜を抱えたフクロウ』

『夜を抱えたフクロウ』
(クリックで拡大)

『夜部』(主催:こまさん)のための絵。
フクロウの眼は闇夜に広がりゆきて、夜そのものを吸いこむ。
はたしてその身体に夜が宿っているのか、
それとも夜そのものがフクロウなのか。

20131208

個展より〜⑥『回』

『回』
(クリックで拡大)

「回」という字は面白い。漢字より記号らしい。
新しいペンが「かすれず書ける」というので、
紙面いっぱいに螺旋の線を描いていってみた。
線がかすれるか、私が手を離してしまうか、の勝負は引き分け。
線の間隔が開いたり狭まったり、心の動きまでも投影されている。
単純な絵なのに、個展ではじっくり見ている方が多かった不思議な作品。